ランチアテーマ8.32の変遷

ランチア テーマ8.32の変遷

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ランチアテーマ8.32の変遷

フェラーリエンジンを搭載したランチアの4ドアセダン。

この極めて稀有なクルマはどのように誕生し、どのように消えていったのでしょうか?

8・32はもちろんランチア・テーマシリーズの1車種にすぎませんので、どうやら母体となるランチア・テーマ誕生の頃からの歴史を辿る必要があるようです。


公然の秘密?
ランチア社は1978年にミドルクラスのベータ・トレビおよびガンマの後を継ぐモデルの開発を始めました、それは 「 プロジェクトY9 」と呼ばれ、6年後にテーマとしてデビューします。

基本コンセプトはオーソドックスな3ボックスのセダンとされ、デルタに引き続きデザインはジウジアーロに依頼されました。

基本開発は当時提携関係であったサーブ社と共同で行われ、後にアルファロメオ、フィアットがこれに加わり、いわゆる「ティーポ4プロジェクト」という共同開発に発展していきます。

そのテーマのデビューは1984年10月のパリ・サロン、落ち着きのある優雅なスタイルはランチアのプレステージカーに相応しいものでした。

このデビューの頃にはすでにフェラーリエンジンを積んだテーマが存在する事が知られており、まるで公然の秘密かのように広く囁かれてたようです。

Tipo4 Project のクルマたち
(左よりアルファロメオ164、ランチア・テーマ、フィアット・クロマ、サーブ 9000)



許されなかった? 「 テーマ・フェラーリ 」
その噂のクルマは1年半後の1986年4月のトリノショーに姿を現しました。

車名はそれまで噂されていた「 テーマ・フェラーリ 」 ではなく、「 テーマ 8・32(8気筒32バルブの意)」 というものでした。

一説によると、当初ランチア社はその圧倒的なネームバリューを利用すべく、「 テーマ・フェラーリ 」 のネーミングにしたかったのだが、今は亡きエンツォ・フェラーリがこれに承諾せず、車名にはおろか、その文字や跳ね馬のエンブレムをこのクルマに飾ることは一切許さなかったそうです。

実際にはエンジンヘッドに「 LANCIA by Ferrari 」 の文字がありますが、これのみを渋々と認めたらしい、という話がいわば伝説のように語り伝えられています。

その後、発表はされたもののなかなか販売されかったのですが、1987年1月頃よりようやく1日6台のペースで生産されるようになりました。

この遅れと生産台数の少なさは、発表後の細部改良と開発に多くの時間が費やされたのと、多くを手作業を必要とするその生産工程のためと思われます。

また生産車には発表時には無かった収納可能の電動可変リアスポイラーがトランクリッドに装備されていました。

このスポイラーは当初スピードに感知して自動的にせり出すようにと計画されたが、色々問題があったらしく、結局はドライバーの手に委ねられる手動式になりました。



生産型 8.32の概要
8・32の最大の焦点はやはりパワートレインであり、フロントフード内に搭載されたのはフェラーリ308クワトロヴァルボーレや、モンディアル8クワトロヴァルボーレに搭載されていたV型8気筒DOHC・32バルブ・2927ccの一線級なユニットでした。

そのエンジンはサルーンに積むことにあたり、出力重視型からトルク重視型へと性格が改められおり、最高出力が240HP/7000rpmから215HP/6750rpmに、最大トルクが26.5mKg/5000rpmから29mKg/4500rpmへにと変更されています。

具体的にはクランクシャフトの角度をパワー重視の180度スローから振動・静粛面に有利な90度スローへと変更し、さらにピストンの材質や形状の変更などがされています。 その結果ピークパワーを抑えたサルーンに相応しいフラットなトルクカーブを獲得しています。

またテーマ・シリーズのフラッグシップとなるモデルだけに、各部も徹底的にグレードアップされました。

インテリアにはイタリアの高級家具メーカー、ポルトローナ・フラウ社の本革をふんだんに用い、シートばかりかダッシュボードやドアの内張り、更にはステアリングやシフトノブまでも覆いつくしました。

それに加えメーターパネルやドアのショルダーにはウォールナットを、天井にはアルカンタラ(人工スウェード)を用いるという豪華絢爛な内装に仕上げられています。

エクステリアには前述の可変式リアスポイラーやボディサイドに書かれた2本のペイントストライプ(職人さんの手書き)、フェラーリを彷彿させるアルミの格子形状グリルや星型の5本スポークアルミホイールなどが装備されています。

ちなみにエンツォ・フェラーリは社用車として8・32に乗ってたらしいです、もちろん後席だとは思いますが。(笑)

またフィアットグループの会長ジャンニ・アニエッリも自身のプライベートカーとして特別に8・32ワゴンを仕立てさせて乗っていたそうです。



誕生秘話あれこれ
話が少し脱線しますが、ランチアとフェラーリの歴史的関係として1955年にランチアがF1から撤退する時に、当時不振に喘いでたフェラーリにF1マシン「D−50」をそのまま譲ったという事実があります。

そしてフェラーリに引き取られたD−50はその名も「ランチア・フェラーリ D−50」としてグランプリに参戦し、翌1956年にはドライバーズチャンピオンを獲得するまでに至りました。

奇しくもこの時のエンジンがランチア製のV8エンジン、そしてその30年後に今度はフェラーリがランチアの市販車にV8エンジンを供給する、なんともロマンチックな話です。

8・32の誕生はこの時のお礼だとかいう話が支持されてますが(筆者も支持したい)、おそらく真相とは異なっているものと思われます。

当時のテーマ開発チーフであるブルーノ・セーナの独断だったという説もありますが、たぶんあくまで親会社フィアットのテーマ販売政策上のイメージアップ強化策だったと推測され、フェラーリの持つその圧倒的なブランド力を利用したかったためと思われます。

当時テーマクラスのセグメントにはメルセデスやBMWをはじめとしたライバルがひしめき合っており、フィアット社がテーマに優位性を持たせるために強力なフラッグシップカーが欲しかったためと予想されます。

また、308シリーズは8・32が発表される1年前にすでに328へと移行しており、単にエンジンが余っていたからテーマに流用したという説もあります。

この説には、フェラーリ・ユニットの残数から8・32の生産を1100台と限定し、これを何年かに振り分けて生産しようという目論見だったが、初年度にいきなり700台ものオーダーが入ってしまったため急遽増産せざるえなかった、というまことしやかな後日談がつきます。


6年間の生涯
テーマ・シリーズは1988年9月のパリ・サロンでマイナーチェンジされ、フェイズ2(第2期モデル)へと発展します。

8・32もこれに伴ってフェイスリフトの一新が施されました。エクステリアで一番目につくのがヘッドライトの変更で、濃いアンバーに着色されたウインカーランプと分割されて薄型なものとなりました。

他にもドアミラーの形状変更や、サイドスカートとリアにあったエンブレムの廃止、内装SWの形状変更など多数の変更がされました。

1992年10月のパリ・サロンにてテーマシリーズはいよいよ最終章、フェイズ3(第3期モデル)へと変更がなされます。

この時、フェイズ3の新たなフラッグシップとしてテーマ・16バルブ・ターボLSが登場し、8・32はその役目を終えます、発表されてから6年間の生涯でした。

8・32の総生産台数はフェイズ1が2,370台、フェイズ2が1,601台の合計3,971台でした。

その8・32なきフェイズ3も1994年10月登場のテーマの後継車κ(カッパ)にその役目を譲り、生産を中止します。テーマ全体の総生産台数(8・32含む)はトータル278,049台だそうです。



日本での8・32
日本での販売は意外に早く、本国に遅れること丸1年後の1988年1月からガレージ伊太利屋より販売されました(フェイズ1:E−L34FL)。

触媒の装着など日本仕様に改善されたものの、カタログ上の最高出力は215HPとヨーロッパ仕様のそれそのままでした。(もっともこれは、当時の運輸省の形式認定上の問題が関係しており、輸入台数の少ない車は本国での出力をそのまま表示してよいと認可されてたらしい。)

当時日本での新車価格はなんと950万!本国での販売価格は分かりませんが、かなりの高額車でした。

1989年5月には第2期モデル(フェイズ2:E−L34Q)の8・32が同じくガレージ伊太利屋から販売されます、新車価格はこの年より導入された消費税(3%時代)による物品税の廃止により、860万と90万も値下げされています。

またこの時に最大出力が落ちていてカタログ上205HPになってます。

同年8月にテーマ・V6、16V、16Vターボなどのフェイズ2モデルが追加販売されますが、なぜかこの時に8・32の販売価格が835万とさらに値下げされてます、この間わずか3ヶ月、為替の都合か何かでしょうか?

1990年からは前年にランチアのディーラー権を取得したマツダ・オートザムから販売が開始されます(フェイズ2:E−A834F)。

テーマの輸入権は完全にマツダへと移行しましたが、ガレージ伊太利屋からも引き続き販売は行われました。オートザムでの新車価格は838万、ガレージ伊太利屋の価格は前と同じの835万でした。この3万の違いはなんででしょう?

このオートザム扱いになってからイタリア本国でのライン上で、対日本用の触媒が取り付けられるようになったそうです。

そしてこの型式から出力が下がって200HPとなりますが、他のテーマ(16Vや16Vターボ)も同程度の出力ダウンをしております、これはマツダ社が出力申請を触媒付きでやり直したからだろうと推測されています。

8・32の輸入は生産中止となる1992年に終了してますが、その高額な価格のためかオートザムでは数年にわたる長期在庫車がでたようです。

確認できたところでは1996年1月に登録されたのが日本最後の8・32の新車だそうです。(当然ながら並行輸入車は除いてます)

日本に正規輸入された8・32の台数はガレージ伊太利屋で130台、オートザムで108台の合計238台と聞いています、正確な数字かどうか分かりませんが、おおよそは250台前後のようです。




ランチア・テーマ 8・32関連年表
 
1982年10月フェラーリ308GTB/GTSクワトロヴァルボーレが発表される。
1984年10月テーマ、パリ・サロンで発表される。
1985年?月フェラーリ308がチェンジ、328へと移行する。
1986年11月トリノ・ショーにて8・32が発表される。
1987年01月この頃より1日5、6台のペースで生産が始まる。
1987年01月早くも東京外車ショーにて8・32が展示される。 
1988年01月ガレージ伊太利屋よりフェイズ1の8・32(E−L34FL)が販売開始。960万円。 
1988年08月14日、エンツォ・フェラーリ死去。享年90歳。
1988年09月パリ・サロンにてフェイズ2のテーマがデビュー。
1989年04月マツダ、オートザム設立。ランチアのディーラー権を獲得し販売することに決定する。
ガレーヂ伊太利屋も引き続きランチア車の販売を行うが、テーマの輸入権はマツダへと移行する。
 
1989年05月ガレージ伊太利屋よりフェイズ2の8・32(E−L34Q)が販売開始。850万円。
1989年08月ガレージ伊太利屋よりフェイズ2のV6、16V、16Vターボが販売開始。8・32の再値下げ(?)835万。
1990年03月オートザムにて”テーマ・デビュー・フェア”。8・32(E−A834F)の販売開始。
1992年?月8・32生産中止。
1992年10月パリ・サロンにてフェイズ3のテーマがデビュー。 
1993年10月テーマの後継車 κ(カッパ) デビュー、テーマはステーションワゴンを残して生産中止に。
1996年?月日本最後の8・32の新車が登録される。

8・32総生産台数
 フェイズ1: 2,370(2,370)台 
フェイズ2: 1,601(1,517)台

合計:3,971(3,887)台


※「TUTTE LE LANCIA(1907−1993)」より。カッコ内はAztec HPによる情報。

日本正規輸入販売台数
250台前後(たぶん)

 


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